2022-04-15

市中の山居より 第16回

奇跡は二度おこる その2

 今からおよそ20年前、東京・山手通りの道路拡張が本格化した。当時の岩茶房の所在地から約300m向こうの畳屋から、隣の団子屋あたりまでを取り壊して高層ビルを建設するのが都の計画であった。築何十年かの木造家屋で静かに暮らしていた一人住まいの老人や個人商店は地上げ屋のしつこさと提示金額に根負けして、次々とどこかへ引っ越して行った。岩茶房に二人の男が現れた。ハデなストライプのスーツに左手をズボンのポケットに突っ込んだ男が「店長に会いたい」と言った。「私ですが」と男の前に立った私に「頼りねえな」と言いたげに幾らか身体を反らして「ここ一帯再開発される。交渉に来たんですがね」と大声で言った。地上げ専門家にふさわしい脅しの声だ。男はエルメスの名刺入れから名刺を一枚引き抜き、中指と人差し指の間に挟んで私に寄越した。株式会社トラスト 営業部長M。そして二人は椅子にドスッと座った。Mは貧乏ゆすりをしながら「一日も早く立ち退いてほしいんですがね」と迫った。「引っ越し代と新店舗家賃の一か月分は保証しますよ。お茶を飲ませるだけの店だろ。小屋だってできる商売だ」とMが言った。トラストは私たちを丸裸で放り出す気だ。女だと甘く見ている。

 目黒区は高級住宅地域もあるが、山手通り沿いは中小企業と家族経営の店が入り混じった地域で、とりわけ岩茶房界隈は大鳥神社と目黒不動のある下町風情を残していて、家族経営の店が多い。二度目の地上げに合ったその年、岩茶房は創立20周年を迎えていた。建物はノッポな六階建てビルで、完成した時大家は「これが男の夢だ!」と叫んだという。「どうしてこういうことになったのですが」と大家に訊くと、「銀行に騙された」とガックリした。よくよく聞いてみるとーーー。

 大家はビル建設にあたり自己資金の不足分をS銀行から借りたが、返済が苦しくなり融資を頼んだ。銀行はデリバティブ商品を買ってくれれば融資すると勧めた。土地を抵当に大家は二千万円の融資を受けた。融資金の利息が4%として、利息プラスリスク商品(仮にそう言う)の利息合計は14万円くらい。この計算でいくと、元利合計で大家は月40万円ほど銀行に返済しなくてはならないらしい。不可能な場合は契約不履行となり、抵当物件を差し押さえられるということであった。大家の資産状況を把握していたS銀行は大家にこういうリスクの高い商品を買わせ、計画通り破産に追い込んだと考えられる。こういうのを抱き合わせ販売というと専門家から教わった。大家は銀行が仕組んだ計画にまんまと乗せられたのだ。

 トラストの背後にグランドコーポレーションという不動産会社がいた。「ごねるとまずいことになりますがね」とMは言った。「別にごねてはいません。条件を何も聞いてませんから」「さっき言ったように引っ越し代と新店舗の家賃一か月分は面倒を見ますよ」「それでは岩茶房は引き渡せません」二度目の立ち退きなので、私は結構落ち着いていられた。「お宅の運命は我々が握っているんですよ」とM。「グランドコーポレーションの弁護士とお話しをします。そう社長にお伝えください」「あんたの立場が悪くなるだけだよ。弁護士と話して勝てると思っているのか」「私も解決したいのです」

 その晩、私は弁護士宛てに手紙を出す決心をした。タンカを切ったものの、何を書けばよいのか、サッパリわからない。「極品肉桂」を入れて飲んだ。そのとき閃いた。「私の店」と考えていたから方向性を見つけられないのだ。「岩茶房はみんなのサロン」なのだ。店を自分から切り離せばよい。私は岩茶の管理人に過ぎないのだ。この意識は必ずしも立ち退き交渉のための方便ではない。そういう意識で店を経営してきた大切な原点を、二度目の立ち退き事件が図らずも思い出させてくれたのである。私は品のある越前和紙の便箋に万年筆で書いたーーー日中文化交流サロンとして設立した岩茶房は北海道から沖縄に至る人たちによって、そして中国の人たちによって維持運営されている場です。中には精神的、身体的問題を抱えている人たちもおります。当サロンを立ち退かせる計画を成就させたいならば、全国の岩茶房維持者を説得して下さい。その方々が納得された場合、管理人としての私も御社の計画にご協力いたします。

 後日弁護士から電話が入り、店で会った。中肉中背の何となく陰の臭いを漂わせる60歳くらいの弁護士はいきなり「内装費用は試算済みですね」と言った。私は必要な金額を提示した。「あなたの要求を飲みましょう」と言い、書類を私に手渡した。「借地借家法第27条に基づき解約通知」というものであった。「仕事の話はこれで完了。ここからは私個人の言葉です」と言い、弁護士は思いもよらないことを話し始めた。「仕事柄いろんな女性を見てきたが、あなたのような女性は初めてだ。立ち退き料を吹っかけないのも、その一つだがね。変わった交渉術を持っている人だと思った」それで私は言った。「あなたの人間性にすべてをお任せしようと決心しただけです」すると彼は私に背中を向けて言った。「私はね、山の中に引っ込んで仙人のような暮らしを本当はしたいんだ」

(佐野典代)

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