2022-03-03

市中の山居より 第15回

奇跡は二度おこる その1

1991年2月のある寒い日に、最初の奇跡はおきた。

このころはバブル経済たけなわ。身体と心をいやす岩茶にお金を使う時代ではなく、人々は高級品や高いレストランで贅沢をしていた。そんな時代にオープンした岩茶房に足を運ぶ人はいない。店は毎日赤字。客はほとんどゲイだった。私は毎日シャナリシャナリと入ってくるゲイと談話。おかげでゲイと仲良くなりその世界に結構詳しくなった。

その時の岩茶房の所在地は住民の誇り高き麻布十番。当時麻布に地下鉄の駅を造る計画であったが、住民は反対した。麻布は足の不便なところで、自家用車かタクシーで公共交通機関はバスしかない。どんなに不便でも人は麻布に来る自信がこの町の人にはあったのだ。麻布という名称自体がステータスだったのである。ここの新築6階建てKビル2階16坪に岩茶専門店として岩茶房はオープンした。1988年1月のことである。

そして二年後のある寒い日の朝、Kビルを斡旋した不動産会社社長から電話が入った。「何だろう?」貧乏喫茶店とはいえ、家賃は滞納していない。「もしかしたら…⁉」私に閃光が走った。次の日の午前10時に社長が店に現れた。肉付きの良い体躯に濃紺のスーツ、緑色と赤色の花とも花火とも見分けがつかないハデなネクタイをつけた40代の男性。彼に椅子を勧めると座り、即座に「立ち退いていただけないか」と切り出した。私は反射的に「助かったァー!」と心の中で叫んだ。が、むろん顔はいかにも困った表情で「再開発に住民は反対していて、立ち退きの話は一切ないと聞いていますが」と言ってみた。「この建物だけが立ち退きになったのです」と社長は言った。

Kビルのオーナーは若いころ釜飯屋を始め財を成し、1990年に念願のKビルを完成させた80才過ぎの老女である。1階は新橋の料亭で長年働き、独立して憧れの麻布十番に総菜屋を開いた女性の店、3階は既に有名だったイタリア料理のレストラン、4階から上にはオーナー家族が住んでいた。イタリア料理のレストランは連日満席。椅子が足りなくて暇な岩茶房が椅子を貸してやっていた。1階の総菜屋の経営は苦しく、岩茶房立ち退き話より一か月早く、店を閉めていた。あと一か月店終いが遅ければ…‥、これが運命の分かれ道というものか。

オーナーが立ち退きを承知してくれたので、社長が私に立ち退きを要求してきたのだ。「これでどうでしょう?」社長は右手をテーブルの下に移動して言った。私は何気なくテーブルの下の彼の手を見た。彼は指を4本立てていた。「指1本どうしたのですか?」彼の指が不自然だったのでそう言っただけなのに彼は折っていた親指をピンと立ててパーの形を作り「ではこれでは?」と言ったのだ。指一本の意味が何を表現しているのかなど全然知らなかった私は咄嗟に「あ、お金か!?」と直感した。「これで借金が返せる。店が助かる」私は心の中で叫んだ。

心の中は歓喜していたがかをは憮然としていたらしい私に社長は私が迷っていると判断したらしく「保証金もそのままお返しします」と付け加えてきた。「すごいぞ!」私はさらに歓喜に震えた。それからかろうじて私は言った。「立ち退きなんて初めての経験なので、これからどうすればいいのですか?」「建物に付いているものはそのままで結構です。移動できるものだけ二か月以内に運び出して下さい」

1986年に始まったバブル経済は92年に弾けた。岩茶房立ち退きはバブル崩壊前年の出来事だったのである。金が湯水のごとくバラまかれたバブル。Kビルは何年も取り壊されないまま野ざらし状態になった。借金まみれの岩茶房に立ち退きは救いの神。この奇跡的瞬間に出会い、私は思ったーーこの仕事を続けようーーと。

(2度目の奇跡は次回で)

佐野典代

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