2021-07-27

市中の山居より 第八回

ひらめく

冬の水道水は手が切れるほど冷たい。米を研ぐ右手は真っ赤。と、右手が頭上高く、ふわりと浮き上り、60度くらいの角度で無重力空間を浮いている。手はびっしょり濡れている。なのに、一滴の雫も落ちてこない。温度も感じない。下半身は重力空間にある。左の手の平は大きな寸胴鍋の縁をさわっている。

――お任せします――視線は正面空間に向けられていた気がする。自分の口からスーッと吐き出された言葉を、確かに私の耳はとらえていた。これは幻聴ではない。錯覚ではない。覚醒時の出来事である。「お任せします」と言ったとたん、右手は万有引力の法則に従い、冷たい水の寸胴鍋の中にストンと落下した。鍋底に、途中まで研いだ米が沈んでいる。私はいったいだれに言ったのだろう? 何を任せるというのだろう?

 体温が1度下がると、潜んでいる病気が体の中で活動を開始すると言われる。体温34度は、死への階段を一歩踏み出す危険信号だ。人は体温を平均36度5分を保つ必要がある。なのに、低体温の男女が増えている。主な原因は食べものと飲みものだろう。

 お粥は腸内を掃除してくれる。飽食、ジャンクフード、添加物などで汚れた腸の中をスッキリさせて、体温を正常にさせていく食事である。そして岩茶も――。

 私の体あるいは精神に不思議な出来事が現れるようになったのは、岩茶とお粥が生活に加わったときからです。米を研いでいるとき、岩茶を淹れているとき、私は何も考えていない。何事かを考えて淹れる岩茶の味は良くない。私は経験からそのことがわかってきた。

 脳が休んでいるそういうときでも、しかし前頭前野の内側は活動しているらしい。そこは人の精神をつかさどる脳だという。つまり理性、知性が休んでいるときに働いている脳が存在し、ヒラメキはこのとき生じるというのである。お風呂に入っているとき、ぼんやり外を眺めているとき、ヒラメク。アルキメデスや万有引力の法則を発見したニュートンのヒラメキは有名だ。もちろん、私の右手がふわりと浮いて「お任せします」は、何の発見にもつながってはいないが、岩茶と歩んでいる私にとっては肉体と精神をもうひとつの世界に導く脳の働きがあると信じさせるに足るヒラメキだった気がする。

 何かと一生懸命、誠実に向き合っているうちに脳は遊びの状態に入っていくようです。これは医学的に「デフォルト・モード」と言うようです。簡単に言えば、リラックスしているとき、思いもよらないヒラメキがあるということです。

 岩茶は人をリラックス状態にしてくれる王者です。腸に良いお粥をたまには食べ、前頭前野の内側を活動させてくれる岩茶を飲んでいるうちに、あなたが気づいていないあなたの隠れた才が引き出される――そういうことかもしれません。

佐野典代

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