連載小説『阿Q外伝』第五回
5.小さな出来事
それからの革命がどうなったか。志那がどうなったか。親父魯迅は、自分が死んだ後の国の姿を知りたいに決まっている。なんだって国を愛していたから、心配も大きかったはずだ。俺は長く生きてやるぞって決めたのは、それを魯迅に話してやるのが使命だと思ったからだ。それでとりあえず俺は兵隊になった。毛沢東の思想なんて俺にはさっぱりだが、読み書きができなくても、農民はだれでも兵隊になれたのが、俺には好都合だった。
魯迅が俺をだれからもまともに相手にされない野次馬で無学で陽気な性格に創ってくれたおかげで警戒されず、いろんな情報が耳に入ってきた。
老阿Qになったとき、俺が見たこと、聞いたこと全部を親父魯迅に話してやりたいんだ。
金儲けのためならアメリカや日本と調子よく付き合える蒋介石は、俺から見れば小人(しょうじん)だな。一方、毛は新たらしい国をつくろうと一生懸命だ。
毛の周辺には立派な人が幾人かいたようだ。とりわけ、前に一度耳にしたことのある周恩来という政治家や胡耀邦とかいう人は、学問した者たちの耳目を引く政治家らしい。毛は思想家で、周や胡は実務派だということだ。毛の思想を実現するには実務派の能力が必要なんだ。
周恩来や胡耀邦は新国家樹立に向けて懸命に働いていた。その実行力に、俺たち最下層の者は希望を持ったものだ。
蒋介石の国民党に追われながら、俺たちの長い長い過酷な長征がやっと終わっても、華北の空を毎日、日本の軍用機が飛び回っていた。俺たちは「怪機」と呼んでいたね。中国人民は日本軍の横暴を憎んだ。
戦争は殺し合いだ。憎んでどうにかなるものではないのが戦争だ。
俺の特技の「にらみ」は、こうなるとだれをにらめばいいのか、さっぱりわからなくなってしまい、役に立たなくなった。
利権が欲しくて満州を奪う作戦に出た日本軍は、北京から奉天に向かう張作霖が乗った列車を爆破したもんで、満州の政権は張作霖の息子の張学良に引き継がれた。若い将軍張学良は蒋介石と協力して、十数万の抗日義勇団を編成して、日本軍と戦った。
毛沢東ら共産党の首脳は蔣介石に訴えた。
「売国的政策をやめよ。国内問題でどんな不一致があろうとも手を結んで、救国にあたろう」
実は蔣介石の内戦政策はもう行き詰っていたらしいな。それでも蔣介石は張学良に「内戦を続けよ」と命令していたんだ。このとき蔣介石に直談判したのが、周恩来という人だ。周恩来は力強い言葉でこう言ったそうだ。
「あなたが内戦をやめ抗日を準備するならば、われわれ共産党は協力し、あなたの国民政党打倒政策は取らない」
周恩来の説得で、蔣介石は内戦停止を約束した。蔣介石はまず共産党をやっつけて、それから日本と戦う作戦だったらしいが、それを周恩来が止めたのだ。そして紅軍と呼ばれていた軍隊を国民革命軍という名前に変え、朱徳という人が総司令官に就いたんだ。これが「希望の星」と呼ばれた八路軍だ。
八路軍誕生は喝采を浴びたよ。朱徳は人望があったんだ。希望の星の誕生で、中国共産党の抗日統一戦線の攻撃力はグーンと高まった。そして中国と日本は全面戦争に突入したのだ。
抗日統一戦線の問題について、親父魯迅は文章を書いていた。体を壊していたのに根詰めて書いていたらしく、寿命を縮めてしまったのだ。
魯迅のやつれた蒼ざめた顔がある日突然俺の目の前に現れ、『小さな出来事』という短い小説を思い出させたのだ。こんな話だった。
――北京に来てから私の癇癪はつのるばかりで、日ましに人をないがしろにする人間になった。けれどもただ一つの小さな出来事を、私は今でも忘れることができない。
ひどい北風が吹いているある日のことだった。私は朝早く外出しなければならなかった。人力車を一台つかまえ、S門まで行くように命じた。突然、車のカジ棒にボロボロの服を着た白髪の一人の女が引っかかって倒れた。車夫は足を止めた。老婆はケガをしたとは思えなかったので、余計なことをする車夫だと思い、私は彼に言った。
「予定が変わってしまう。やってくれ」
しかし車夫は老婆に手を貸してやり、ゆっくり立たせ、派出所へ向かって歩いて行った。
「憎たらしい老婆だ。余計なお節介をする車夫だ」
と思ったこのとき突然、埃にまみれた車夫の後ろ姿が、私の目に急に大きく映り、私は凍りついてしまった。
巡査が私に「別の車を見つけてください」と言った。私は外套のポケットから銅貨を出して「これを車夫に」と巡査に渡した。
私に車夫が裁けるのか? 私は自分に応えられなかった。
この出来事が絶えず心に鮮明に現れ、私を恥じさせ、私を奮い立たせ、私の勇気と希望を増してくれるのである。――
親父魯迅は作品をたくさん書いたのに、俺は『小さな出来事』だけが思い出される。
なぜかなぁって、珍しく寝つかれない晩、俺はつらつら考えてみた。
多分、名もない人間の行為や心の動きのほうに真実がある。そこに希望を持てと、魯迅は言いたかったんだろうな。
(つづく)
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