2021-02-04

市中の山居より 第三回

「応仁の乱世がお茶を生んだ!」

 ときは不毛の10年と言われる応仁の乱(1467〜1477)の真最中、都・京の人々は飢餓に苦しみ、8万人以上が死んだ。ときの将軍足利義政の妻、日野富子は金銭感覚に勝れた女性で、美に走る義政とうまくいかず、関係を絶った。やれやれと義政は解放感にひたる。唐物(中国もの)好きの義政は、風景の美しい東山に山荘を建てた。「銀閣」(正しくは禅寺慈照寺)である。ちなみに「銀閣寺」の名前になったのは江戸時代になってから。

 義政はこの山荘を滅びやすい木と紙で造った。「はかなさ」が美の本質と義政は考えていたようだ。政治家としての才能はなかったが、日本文化を語るとき欠かせない東山文化をつくった人が義政なのだ。たとえば床全体に畳を敷く。紙を使った障子で外光を室内に取り込む。四畳半の茶室「同仁斎」を造るなどなど。応仁の乱でも、銀閣寺は2つだけ建物は残った。それが「銀閣」と「東求堂」。目の前で戦いが行われているのに、義政は東求堂の「同仁斎」で茶を楽しんだ。

 銀閣寺は、室町時代から盛んになる「会合の場所」だった。言い換えれば、人と人のつき合いを大切に楽しむサロンだった。人と人を切り離す乱のとき、義政は山荘で茶を楽しむサロン(「座」)活動をした文化将軍だったのだ。

岩茶房も「座」の文化教室を継続しています。安らぐ精神の連帯感を共有する人々が集う岩茶房の「茶の教室」は、遠く室町時代からの流れを汲む「座」。コロナ禍の現在だからこそ、義政の発想を見直したいと思います。

(岩茶房 佐野典代話)

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