2023-01-21

市中の山居より 第20回

滋賀のお茶は日本茶の祖か?

 琵琶湖に流れ込む川は117本、出口は南の細い瀬田川1本だけ。水は減らず、40万年経っても巨大なまま。日本で唯一の「古代湖」(そこだけに生きている生き物のいる湖。固有種は60種以上)。昨年の初秋、水の旅と称して琵琶湖西岸・高島市の「針江の生水」などを訪問。持参茶葉はもちろん岩茶。創業以来、岩茶と水の相性に興味を抱き続け、あれこれ試してきましたが、岩茶は水の個性によって味、香りに変化があり、興味は尽きません。この地の軟水は力が強く、その結果、味は深く強く、香りは味に隠れるように微か、面白い体験でした。水の性質と茶の品種の関係を考えると、近江はまさに緑茶の産地、その伝統もうなずけました。

 大津の町の、とあるお茶の店に寄りました。創業安政5年(1858)の老舗です。ご主人と話が弾みました。安政5年はあの安政の大獄の前年です。浮世絵師・安藤広重が没した年、外に目を向ければダーウィンが『種の起源』を著し、インド・ムガール帝国が滅亡し、イギリスがインドを併合したときです。誠実な商いを続けなければ、160余年店を維持できるものではありません。

 近江の茶を何種類か購入しました。今年の岩茶房教室のプログラムでご披露します。お楽しみに。

 私はこの機に近江の茶と日本茶の歴史を再考してみました。最初の登場人物は、平安時代初期の最澄です。中国浙江省天台山から一握りの茶の種を持ち帰り、比叡山麓大津の里の日吉茶園に蒔いたのが延暦24年(805)。この種が育ったのが日本茶の祖といわれます。そして喫茶した最初のご仁が嵯峨天皇、もてなした人物が永忠、日吉茶園に植えてから10年後(815)のことと『日本後記』にあります。しかしこの時代の茶は朝廷内の飲みもので、宮廷の外に出ませんでした。

 次に登場する人物は日本臨済宗開祖栄西(1141~1215)です。栄西は二度宋に行き、禅院で盛んに喫茶が行われていることを見聞体験し、茶の種を持って帰国、佐賀県の東部背振山の霊仙寺内石上坊の庭に植えました。宋留学時に茶が体に良い事実を学んだ栄西は「茶は養生の仙薬」で始まる有名な『喫茶養生記』(日本で最初の茶の専門書)を著し、鎌倉三代将軍で酒好きの実朝に飲ませて宿酔を治したりしています。

 三人目の登場は華厳宗の明恵上人(1173~1232)。明恵上人は栄西の背振り山の茶を分けてもらったのか、自生していたのか、私は分からないのですがとにかく自房・京都栂尾高山寺に植え、茶を推奨したようです。肝心なところは、栂尾が日本最古の茶園とされ栂尾の茶を「本茶」と呼び、その他の茶を「非茶」と位置づけ区別したことです。鴨長明が『方丈記』を著したのは明恵上人が晩年にかかるころで、京の都は自然災害や疫病でひどい状態で「養生の仙薬」の活躍はあったのか、なかったのか。日本の茶は栄西、明恵の鎌倉時代、貴族から武士階級に下り、広まっていったのは事実です。考えるに日本の茶の祖は大津の里の日吉茶園、最澄の茶の種か、栄西が持ち帰り背振山霊仙寺境内か、明恵上人の栂尾の茶か、断定できません。元祖争いのないところが、お茶の懐の深さ、心の大きさかもしれません。お茶巡りをしていましたら、穴太(あのう)組の石垣が目に留まりました。美しいだけでなく考えさせられる石組みでした。石がこんなことを語っているような気がしてー——大きな石は小さな石に支えられている。小さい石は大きな石に護られている———茶の精神に通じるようでした。

(佐野典代)

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