2024-12-11

連載小説 阿Q外伝 第十一回

11.江青皇后と張玉鳳貴妃

 「その女(ひと)は肌がきれいなのだろう。中国の男が目を奪われるのは肌なんだ。ゆで卵を剥いて現れてくるような肌に憧れる。杜甫もそういう肌に憧れて『麗人行』を書いた」

 「ゆで卵の肌か! 一度でいいから、触ってみたいな」俺は乾いて皮がめくれた唇を舌でぺろりと舐めた。

 「毛沢東も良い詩をいくつか書いているが、杜甫と同列にはできないよ」白いつるんとした女の肌の話は迂闊だったと気にしたらしい詩人男に、杜甫なんて俺は知らない、気にするなって言ってやった。そんなことよりも俺は、美人に近づいてはいけないって言ったイキガミサマにすっかり騙されていたことに腹が立っていたんだ。

 「美人妻に骨抜きにされた皇帝や権力者が何人もいた歴史がある。それで自分は違うと人民に印象づけていただけだ」男は苦虫を噛んだように顔を歪めた。

 「イキガミサマの美女の話をもっとしてくれよ。俺は女に振り向かれた経験がないんだ。話してくれよ」俺はせっついた。男は俺をチラリと見てから川の流れに目を向けて、川面に語るみたいに話してくれた。

 「彼の女癖の悪いのは有名だ。英雄は色を好むと言うが、彼は病気だ。つまみ食い女は数えきれない。女優だった江青は延安で彼と結婚した。四番目の妻だ。しかし公の活動を許されなかった彼女は毛沢東夫人を名乗らせてもらえず、江青夫人とか江青同志と呼ばれていたことは知っているだろ? 病気の彼の傍らにいつもいたのは張玉鳳(ちょう ぎょくほう)という女性なんだ。張の表向きの肩書は生活秘書だ。公の場では彼の腕を取り寄り添っていたので、外国からの訪問者は看護婦だと思っていたようだね。

 列車の服務員だった張玉鳳に彼は一目惚れしたんだ。彼女は19歳で夫がいた。長征以前の彼は北京と上海を列車で頻繁に行き来していて、たまたまその列車に乗るはずの服務員が急病になり、代わって張玉鳳が乗った。高官の個室におしぼり、茶、鹿茸(ろくじょう:鹿の角の漢方薬。滋養強壮剤)のスープを運ぶのが彼女の仕事だった。高官の個室に運ぶ服務員は機密秘書と呼ばれ、一般の服務員とは違う。茶を運んできた張玉鳳の美しさに目を奪われ、放心状態になってしまった彼は、彼女を自分の側に置きたくて、国家と党のための任に就くという理由をつけて、ある男に命じて離婚させた。建国後の婚姻法は一夫一妻制であるから、自分が妻だと言い張って猛反対した江青は条件を出した。『張との関係を黙認する。その代わりに私を毛沢東夫人にし、公の活動を認めなさい』。彼はその条件を呑んだ。毛沢東皇帝、江青皇后、張玉鳳貴妃が誕生した。文化大革命中の江青のヒステリックな行動には、この三角関係が背景にあると私は思っているんだがね」

 呆気に取られながら詩人男の話を聞いていた俺は、なーんだ、イキガミサマだって美人にメロメロしちゃう普通の男じゃないか。俺たちと変わりないじゃないか。女がグチャグチャ権力争いをしていれば、国だってグチャグチャになるわけだ。イキガミサマだって歴史の教訓は守れなかったと匂わせる詩人男の話を俺は納得してしまったのさ。

 「貴妃に子どもはいないのか」俺は重ねて訊いた。「二人いるそうだが性別はわからない。党も毛の肉親と認めていないようだ」「子どもたちは今どこで、どうしているんだ?」「だれも知らない」「そんな目に遭っても貴妃はイキガミサマに尽くしているのか」「そうだね」詩人男は首にくっついた毒虫を追い払うように首を何度も振った。

 「パーキンソン病でも子どもをつくったのか」「病気になる前の出来事か、そうでないのか、私は知らない」頭のつるつるした若い尼に「跡継ぎのいない阿Q」と、俺は馬鹿にされたもんだ。無学で貧乏だけど体は丈夫な俺に振り向いてくれる女など一人もいなかった。イキガミサマは体の自由がきかない病気なのに、燃え尽きそうな最後の灯で女を照らし子どもを産ませたということかなァ。凄いなァ。しかし子どもを放り出したのだから、跡継ぎはいない。跡継ぎがいない点は俺と同じだ。

 イキガミサマの言葉だけを信じている民衆は、まだ国中の文物を壊し回っている。学問した者たちは死んだように引き籠っている。人民に人気のある官僚や文化人は紅衛兵の暴力に遭い、大勢が処刑された。無学の俺は紅衛兵にこずきまわされることはないが、若い阿Qだったころのように、あっちこっち首を突っ込めなくなった。情けない限りだ。おまけに俺はしょっちゅう腹がすいている。イキガミサマの時代になってもひどい貧乏暮らしだ。俺たち貧乏人の暮らしは変わらないってことだ。「あんたの暮らしだって変わらないだろ? おどおど笑うなよ。大口開けてゲラゲラ笑ってしまえ。諦めがつくぞ」俺は詩人男に言ってやった。

 「君の家はどこかな」詩人男は俺の親切な忠告など耳に入らないらしく、相変わらず笑いを忘れたような沈んだ顔をしている。自分の家なんかない、生産団体の小屋暮らしの俺は、そんなことを知ってどうする気だ? って訊いた。

 「どうということではない。訊いただけだ」「ここから一里(500メートル)の農村で野良仕事をしている。レンガも焼いている」「そう……」男ははっきりしない反応だ。「どうしたんだ。ちゃんと言え。俺はどん底の人間だから嘘を言う必要なんかない。あんたみたいにもごもご口ごもったりしない」俺は男をねめた。

 「おいしい野菜ができるだろ?」詩人男は相変わらず静かなもの言いだが、いきなり野菜を訊くもんだから、「ああ。昔みたいに大根を盗まなくて済むさ」と返事をはぐらかした。「きみが労働している田畑一帯は土がよく肥えている。理由を知っているか?」男は音のない川の流れを眺めながら、また変なことを言った。俺は「野菜がうまいのは糞尿を撒いているからだ」と得意顔で答えてやった。

 「いいや、あのあたりでたくさんの人が殺された。死体は野菜畑の下に埋められた。死体が肥料になっている。その野菜は、きみが言うエライ人のところに届けられる」「俺たちも食ってるぞ」俺はいい加減なことを言うなと食ってかかった。「きみたちは、それを食べなければ飢え死にしてしまう。しかし肉も腹いっぱい食えるエライ人たちは、したり顔でその野菜を食っている。きみたちとは食べる意味が違うんだ」と言うと男は立ち上がり、背中を丸くして去って行った。

 それから10日くらいが経った。集団仕事を終えて疲れた俺たちの小屋に詩人男がひょっこり現れた。俺は仰天した。怪しまれないで、よくまあ来られたもんだ! 「俺の友だちだ」詩人男の行動に度肝を抜かれたが、胸を張ってみんなに言ってやった。

 「おまえの友だち? そうは見えん」めったに喋らない高齢の農民が詩人男に鋭い目を向けた。「俺が勝手にそう決めているだけだ」チンピラだった俺に友だちは一人もいない。俺は友だちだって言ってみたかったんだ。

 「私は彼の友だちで鄭翔華と申します」詩人男は言った。詩人男の名前をこのとき俺は初めて知った。詩人男は丁寧な言葉遣いだった。「その椅子にどうぞ」学問したらしい頭の良さそうな若い眼鏡男は、丁寧なもの言いに閉ざされていた心の扉が開いたのか、だれよりも先に椅子を勧めた。詩人男は頭を下げて礼を伝え、腰かけた。椅子がギシッと鳴った。

 「なぜ来た」俺は友だちだと言ってくれたのが嬉しくて胸が高鳴ってしまい、ちょっと偉そうに言ってしまった。「みなさんと茶を飲みたくてね」「茶などない」さっき鋭い目を向けた高齢の農民が言った。「持ってきました。みなさんと飲みたいのです」

 みんなが一斉にホーっと、驚きと喜びをまぜこぜにしたうめき声を発した。「お前の知り合いが茶を持ってくるとは信じられん」高齢の農民が見かけによらず、おまえは抜け目がない奴だと言わんばかりだ。みんなざわついた。だれかが「静かにしろ、声が漏れる」と咽喉を詰めたかすれた声で制した。幹部に見つかったらコトだからだ。「うまい茶が飲めない時代が狂ってるんだ」高齢の農民が言った。「茶の味など忘れてしまった。粛清される前に飲んでみたいなァ」やせ細った男が言った。

 茶は封建時代の贅沢品。ああだこうだ言い合った結果、見つかったら逮捕されるかもしれない不安と恐怖を抱えながら、詩人男の茶をみんなで声を出さずに飲むことに決めた。

 裸電球が一つ灯っているだけの薄暗い一室で、詩人男は懐に隠し持って来た急須と小さい茶葉の紙袋を出し、紙袋を開けると一葉もこぼさないように急須に入れて、すでに沸いている湯を注し、いつも俺たちが使っている汚れた茶碗に少しずつついでくれた。みんなはまるで汚れた茶碗に咲いた美しい花を愛でるように、茶碗の中をのぞき見た。茶の色は淡い黄色。みんなうまそうに飲んだ。高齢の農民は日焼けした両手で茶碗を包み持った。手がぶるぶる震えている。密告を恐れているのではない。ちゃんとした茶が飲める喜びで手が震えていたんだ。泥で汚れ、肉が削げ落ちた男たちの顔が、あったかい風呂に足腰を伸ばしてつかったみたいにやわらいでいった。

(つづく)

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