連載小説 阿Q外伝 第十回
10.イキガミサマは美人がお好き
親父魯迅は処刑される俺阿Qを、市中を引き廻してから刑場へ送ってくれた。俺に辞世の句のひとつも詠ませようとして、市中を引き廻して時間をつくってくれたんだ。だけど虫けらみたいな野次馬の俺に、辞世の句など詠める才なんかない。見物人に言うことなど何もなかったし、奴らは俺を笑っていただけだ。人生にはこういうこともあるさって、俺は頭の中で言っていた。
周恩来はさみしかっただろうな。せめて周恩来を謀反人にして、市中を引き廻しにして見世物に仕立てれば、見物人は声を掛けてくれて、孤立した男として死んでゆくことはなかったろうに。周恩来の最後の言葉をイキガミサマは人民にしらせたくなかったのかもしれないな。
それからどれくらい経ってか、イキガミサマの健康状態が風に乗って俺の耳にも流れてきた。パーキンソン病という話だった。どんな病気なんだ? ぼんやり川の流れを見詰めていたあの詩人男なら知っているに違いない。そう思って、俺は農道を歩いて河原に行ってみた。男はいなかった。仕方ないから岸辺に寝転んで、青い空をぼんやり眺めることにした。
鳥が一羽、空の高いところを悠々と飛んでいた。あいつも俺を無視している。俺に近づきもしない。鳥にも見下された俺は安らかな気分になって、いつの間にか眠ってしまった。どれくらい眠っていたのかわからない。眼が覚めたら俺の隣にあの男が座っていた。俺は目をこすりながら、「あんたを待っていた」と言ってやった。男は黙っている。
「パーキンソン病って、どんな病気だ」俺は訊いた。「きみ、病気か?」「俺じゃない、イキガミサマだ」男は顔を上げて空をじっと見詰めたまま、「体が震えて自由に動けない。思うように話せない病気だ」と言った。そして「話術の巧みな人間から言葉が逃げていく」と、詩人男は独り言のようにぼそぼそ言っていた。意味がわからない俺は、「パーキンソン病の原因はなんだ?」と突っ込んだ。「私は医師ではないからわからない」と言った。
詩人男は俺の疑問に答えてくれない代わりに、こんなことを言った。「紅軍の新兵に人の肝臓を食べさせた幹部がいたそうだ。敵の肉を食っても悩まなくってよい、反省しなくてよい、と言ったそうだ。造反者の肝臓は滋養強壮剤だ。生を食いたければ早く来い。残った肝臓は干せ、そう言って、幹部は兵隊を奨励したようだ。病弱な子どもに食べさせる母親もいたらしい」「西へ行軍中、人間を食った話を俺も聞いたことがある。腹が減って朦朧とした兵隊のうわ言だと思っていたが、本当に食ったんだ」
細流の周辺を漂っていた無数のあの青い炎のいくつかは、食われた兵士の怨念だったのかもしれないな。俺の内臓は震えた。
「生きるためには人間の肉だって食う……」言葉が途切れた。詩人男は最後まで言えなかったようだ。人肉食事件が無くならない限り、国の近代化は不可能だとイキガミサマに訴えて晒し者にされたらしい劉少奇という人は、本当のことを言ったんだな。食うものに困った日は何日もあったけど、俺は人間の肉を食う気にはなれなかった。尼寺の畑に忍び込んで大根を引っこ抜いて、齧って、飢えを凌いだことはあったけどな。
複雑なことを考えたことがない俺の頭の中はぐるぐる回るばかりだ。恐ろしいこんな話は、わけのわからない詩なんぞを書いているこの男の妄想かもしれない。俺は忘却することにした。忘却も俺のテツガクなんだ。人間の臓物を食う人間が俺と同じ民族では困るからな。それでも完全な忘却はむずかしい。俺はもう一度訊いた。念押しだ。
「あんたの話は正しいのか」俺は詩人男を睨んだ。「三千年前の話ではない。おぞましい食文化がまだこの国にあったということだ」「文化なんてむずかしい話はよしてくれ。あんたの話は正しいかって訊いたんだ」「……今日はいい天気だ。きれいな月が出るだろうね」詩人男は情けない笑いを見せた。クククッと笑ったこの前の罪のない笑いではなくて、希望を失ったような笑い方だ。情けない顔で、きれいな月が出るだろうねだなんて、俺を煙に巻くつもりだ。
「あんた、何をビクついている? ま、いいさ。とにかくイキガミサマは体が動かない病気になった。もう政治はできないのか?」「側に仕えている者が唇の動きを読んで文字にしているそうだ」「まだ仕事をやりたいのか。すごいな」「残っている大物実務派を追放したいのだろう」
「だれだ?」「胡耀邦と鄧小平……」「だけど病気じゃ、まともな命令なんてできないさ」「周恩来が亡くなると鄧小平は八三四一部隊に拘束され、自宅に軟禁された」「八三四一部隊って、なんだ」「毛沢東側近の部隊だ」「鄧小平って若いのか」「70を過ぎている」「そんな年寄りを捕まえて、どうするんだ」「実務派の凄腕だよ」
「ふーん。ところでさ、さっき、あんた、唇の動きを文字にする人がいるって言ったけど、そいつが違う文字を書いたらどうなる?」俺にはさっきから凄腕鄧小平より、そこんところのほうが引っかかっていたんだ。
「愛人が書いているらしい。嘘は書かないだろう」そう願う、という詩人男の口調だ。「愛人! 本当か?」俺は仰天した。詩人男は俺を見ないで頷いた。
愛人に寄りかかりながら、イキガミサマはまだ国家の頂点にいるのだ。頭の血管はボロボロになっても、愛人の力が脳味噌のどこかの血管を生かしているのだ。死の間際に、国の未来の姿をどんな言葉で書き留めさせているのかなァ。
「愛人はブスなんだろう?」俺は当然のことのように自信満々に言った。「とてもきれいで、聡明な女性のようだ」「どうしてだ? 美人は国を亡ぼすって言ったのはイキガミサマだぞ」「彼は女好きだよ」
「美人を愛してよいのは自分だけって話か」イキガミサマに裏切られたって、ちょっぴり悔しかったけど、イキガミサマが手放さない美人を一目拝ませていただきたい欲望のほうに、俺は強く引っ張られていた。これって、野次馬の習いだから、止めようがないんだ。
(つづく)
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