2024-08-06

連載小説『阿Q外伝』第七回

7.文化大革命の嵐

 村に人民公社とかいう組織があって、その下に生産団体というのがあって、生産団体の一人として俺は農民になって働いた。末端の労働部隊で、女も泥まみれだ。貧しさにおいては日雇い労務者とさして変わらないが、日雇い仕事のほうが俺は自由だった。毎日、農民は真面目に働いたのに、新しい服は一着も買えなかった。不作の年は食う物はなかった。

 ちゃんと食い物があるのはいい暮らしだって、うれしそうに顔をほころばせ、だらんと垂れ下がったボタンを一個ボロ服にくっ付けていたあいつを、俺は思い出してしまった。あいつのボタンはちゃんと三つになったのだろうか。

 農民がみじめに暮らしていても、幹部は腹いっぱい食っていたそうだ。現実は良くないほうへ進んでいるように俺は感じた。農民の不満を解消しなければ厄介な事態になると気づいてくれたのが、劉少奇という人らしい。この人は幹部の不正を防ぐために、帳簿の整理とか在庫の管理の徹底を図ったというから、金や物を好き勝手にくすねている幹部連中はいまいましい思いを募らせていったようだが、貧しい農民にとってはありがたい偉い人だった。人肉を食う各地の悪習を一掃しなければ、この国は真の近代国家とは言えないとイキガミサマに報告したのも、劉少奇という人だそうだ。

 劉少奇夫人も勇気があったなぁ。実情を知るために貧しい河北省で農民といっしょの生活をしたらしいから、夫婦揃って立派だ。こういう立派な人を、イキガミサマは徹底して警戒したらしいぞ。おまけに劉少奇夫人は美人で聡明だったらしいよ。美人で頭のよい女は国を亡ぼすから消さなくてはいけないと喧伝しているイキガミサマは、神経を尖らせていたということかもしれないな。

 新しい国づくりに向かって人民が真っ黒になって働いている最中に、イキガミサマは巨大台風を発生させて、青少年を国中で大暴れさせたんだ。文化大革命という台風だ。100万人の若者たちが天安門に集まったらしい。紅衛兵と呼ばれた若者たちだよ。台風を発生させたければ発生させられる、なんだって出来てしまえるイキガミサマは知識人を右派と呼んで弾圧して、自分の意に沿う政治、法律、道徳、芸術、教育を指導する「中央文化革命五人組」というグループを結成したんだ。ならず者の集まりみたいな名前だなと俺は思ったが、文化革命という耳慣れない洒落た言葉に、農民も青少年もみんな呑み込まれていったんだ。しかし俺は親父魯迅のむずかしい言葉のおかげで、文化は手強いぞ、文化はむずかしいぞと直感的に思ったものだから「中央文化革命五人組」なんて、そもそも怪しい名前だな、手の届かないところにいるイキガミサマの許可証をもらった強盗殺人組織のようなものではないかってピンときたね。

 とにかく紛らわしい名前の文化大革命(正式名はプロレタリア文化大革命)の嵐が吹き荒れ、歴史的価値のある文化財を全部ぶっ壊していった。そればかりか、みんな無口になってしまったなぁ。ひそひそ喋る者や無口になる者が俺の周囲にも幾人かいた。共産党批判をちょっとしただけで捕まって、晒し者にされるんだから、口は災いの元だ。あっちこっちに密告者がいるんだから、なんにも喋れなくなった。ひと月で1800人も殺された話も聞いた。友だちが友だちを密告する、子どもが親を密告するんだから、繭玉の中に自分を閉じ込めてしまうように生きている知識人はたくさんいたようだ。

 魯迅は俺を市中引き廻しの罪人にして、最後は斬首の運命にしているから、密告も市中引き廻しも恐れない俺は、あれこれ聞いて回ったもんだ。もちろん頭の良さそうな人にだ。俺は利口な顔をしていないから、最初は無視された。そのとき俺は思いっきり相手をにらんでやったものだ。

 秋の黄色い光りを真正面に浴びて、牛を曳いた農民たちがくたびれた格好でのろのろ歩いていた。餌もろくにもらえず働き詰めの牛は、痩せて精彩を欠いていた。背中を丸くして土手に座り、目の前をゆるゆる流れている川をいつまでも見ている男がいた。

 男の横に俺はちょこんと座った。「あんた、なに考えているんだ?」俺は訊いた。「川の流れを見ているだけだ」

「そんなものをいつまでも見て、どうする」「どうすることもない」男は川を見詰めたまま小さい声で返事をした。

「俺は泥のように働いているぞ。なんにもしなくて、どうやって食ってる」「君と同じように働いている」「そうは見えないな」

「詩も書いている」「詩ってなんだ?」

「杜甫を知っているか」「だれだい?」「唐代の詩人だ」「どんな詩を書いたんだ?」「そうだな、国破れて山河ありという詩は知っているだろ?」

「俺が知っているのは魯迅だけだ」「ほー、君、魯迅を読んでいるのか」「読んだことはない。俺の生みの親だ」

 男はギョッとした顔で、川の流れから初めて目を離して俺を見た。

「君はすごいことを言うね」「そうかい」「どうしてそんな嘘を……」

「つまんない顔をしているあんたに言ってみたくなったのさ」もったいをつけて言ってやった。

「君の生みの親の魯迅さんはどんな仕事をしていたのだ?」俺を試しているな。俺は逆らわなかった。「むずかしいものを書いていたな」

 男は沈黙して、川の流れをまた見詰めた。あんたの嘘に付き合ってもしょうがないが、死んでいるのか生きているのか実感できない時間の暇潰しにはなるだろうくらいの気持ちにはなったらしく、男は「杜甫にも魯迅にも会いたい」と言葉を川に流すように言った。

「そりゃ無理だ、もう死んでいる」「そうだな」「杜甫って金持ちか?」「妻も子どももボロを着ていた。苦しい社会で詩を書いた」

「俺を生んだ魯迅は貧乏人ではなかったが、苦しい生き方を選んだ。それで金が必要になって、いつも書いていた。理解できないな」「生活と人生は別だ。文芸に生きるのは苦しいものだ。自分の手で孤独をつくりだしているからね」

 杜甫とかいう人と俺の生みの親魯迅に敬意のような感情があったからかもしれないが、男はいやにむずかしいことを力を込めた口調で言った。

「そういうもんかね。あんた、物知りのようだから教えてくれ。魯迅は死にそうな体でむずかしい文章を書いたって話だが、いったい何を書いたんだい」「身を削って書かれた晩年の作品を読んだことがないのか」

「俺は字が書けなかったし読めなかった。今は学んだから書ける。読むことだってできるさ。むずかしいのはだめだけどな」「そうか……。君が知りたいのは抗日統一戦線の問題についてのことかな?」男は俺を舐め廻すようにじろじろ見た。

 死にそうな体で抗日統一戦線とかを書いたなんて俺は知らないが、俺の質問が弱々しく萎えていた男の神経を揺さぶったらしく、声が元気になった。

「その抗日統一戦線問題とやらで、何を書いたんだ?」

(つづく)

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