2024-04-03

連載小説『阿Q外伝』第三回

3.ひとだま

 

 真夏に山道を歩いていた。ここはどこだ? 左側は黄色い肌を出した山、右側は地獄まで続いているような深い谷だ。うねうねと曲がっている山道は狭い。俺は谷に吸い込まれないように、山寄りを歩いた。

 青い空に白い雲がのんきに浮かんでいる。あの雲になりたいな。風で動くなんて楽だ。自由でいいじゃないか。

 道の端に一本、人の血を吸ったような真っ赤な花が長い茎にくっついて咲いていた。俺は標高という言葉を教えてくれた男を捜した。男は俺の少し後ろを歩いていた。男が俺の前に来るのを待った。

 「おい」男を呼び止めた。

 「なんだ?」「この花は何だ?」男は俺の指さすほうに視線を投げた。

 「夾竹桃だ」「食えるか? 血が増えそうに赤い。食っていいぞって、花が俺に言っているみたいだ」

 「毒だ」腹が減って今にもパクつきそうな俺を、男は真顔で制した。

 「死ぬほど毒か?」「一本食えば、一人死ぬ」男は呪いを掛けるように言った。

 「本当か?」「食えばわかる」「食いたいわけじゃない」花の恐ろしさに痩せ我慢した。

 「夾竹桃の咲く夏は特別に暑い」そう言って男は足を引きずりながら俺と並んで歩いた。 「山に木がないな」俺は顔を天に向けて、あたりを見回した。

 「杣道(そまみち)を歩いているんだろ」男はぼそっと言った。

 「ソマミチ? 何だ?」男は俺が知らない言葉をまた使った。これが生活の違いって言うのだろうな。

 「切り出した木材を運ぶ道だ」「みんな伐っちまったのか」「向こうの山に木があるんだろう」「俺たちは木の通り道を歩いているのか」そうだろう、と言うふうに男は頷いた。

 キョウチクトウもソマミチも知っているこの男より俺は以下の人間だ。そう思ったら、勝利の喜びが味わえた。俺より下の人間はいないという自由って、これなのさ。

 杣道は曲がりくねっていた。前を行く兵の足がだんだんのろくなり、ついに止まった。

 「こんなところで休憩か」俺はソマミチの男に言った。「遠くを見ろ。トラックだ」

 俺は断崖絶壁側に体を寄せ、前方に目を飛ばした。材木を積んだトラックが立ち往生しているのが見えた。

 「通れないのか?」「曲がりくねっているから運転がむずかしいだろう。山側を走ればなんとかなりそうだが、崖側に立たされる俺たちが危ない」

 「谷底が見えない。深い谷だな」俺は恐る恐る覗いた。「吸い込まれるぞ!」危ない真似はやめろ、と男は怒鳴った。

 「トラックはどうなる?」「指導者は農兵を守れと言うだろう」

 男が言った通りだった。どこかにいる司令官が命令を飛ばしたのだろう、農兵は前に倣ってぞろぞろ山側に寄り、崖側をトラックの道に空けていった。野次馬の俺はトラックの近くまで歩いて確かめた。トラックは荷台からはみ出るほどの丸太を積んで、縄をぐるぐる回して積み荷を結わえていた。トラックが少し前進する度に車体が揺れる。縄が切れて荷が崩れれば、丸太で兵は怪我をする。打ち所が悪ければ死んでしまう。俺たちは革命の力だ。共産党の財産だ。丸太の下敷きになって死ぬわけにはいかないのだ。しかしこの丸太が革命のための丸太なら、俺たちと同じ財産じゃないか。

 そんなことをぶつぶつ言っていたら、数センチ進んでは停まるトラックが崖側にぐらりと傾いた。ウォォーッ! みんなが叫んだ。叫び声は渦を巻いて青い空を押し上げるように轟き、四方八方から木霊になって帰って来て俺の耳をつんざいた。トラックは運転手と助手席の男を乗せたまま、丸太が雷鳴のような音を鳴り響かせて深い谷底へ吸い込まれていったんだ。

 国民党の弾に当たって死んでしまった者、川で溺れた者、雪山で凍え死んだ者、病んで置き去りにされた者、負傷した傷口が膿んで毒が回り息絶えた者たちに、丸太といっしょに深い谷へ落ちていった二人が、新しい死者に加わった――。

 汚れた顔に目だけをぎらぎら光らせて黙って歩き続けた俺たちは、ようやくある村に辿り着いた。そこの村人の言葉は、俺たちの言葉と違っていた。言葉がわからない集落をいくつか通過してきたが、みな親切だったな。この村人たちも親切そうだ。そういうことは経験で分かるんだ。今日はぐっすり眠れそうだ。

 細流(せせらぎ)が何本かあった。水は透明だ。俺は顔を突っ込んでごくごく飲んだ。顔を洗った。埃まみれの頭の毛を洗った。みんな好き勝手な場所に寝転んでいる。俺もごろんと寝転んだ。

 標高の高い夏の夜は涼しい。細流の音が、垢の落ちた耳に気持ちよく聞こえた。俺は腹いっぱい獲物を食った動物みたいに、思いっきり足腰を伸ばして休んだ。疲労は限界を超えていたはずなのに、寝つけなかった。俺は水の音を聞いていた。

 川の淵のあたりから、ひょろひょろ立ち上がっている青白い炎のようなものが見えた。俺は目をこすってもう一度よく見た。光る虫の群かな? ひょろひょろ昇ったり降りたりしている無数の青白い炎。何だ、あれは? 

 「おい」俺は鼾をかいて眠っている男を起こそうと揺すった。「邪魔するな」男は怒って俺の手を振り払った。「いいから起きろ」俺は男の体を思いっきり揺すった。

 男は薄目を開けて「何だ?」と寝ぼけ声で言った。「見ろ」俺は青白い炎のようなものを指さした。ぼんやりしていた頭がいきなり目覚めたらしく、男はヒィーと声をあげ、隣で眠っている男を起こした。その男も青白い炎のような群を見て、喉を詰まらせたような声を発した。

 青白い炎はどんどん数を増して、細流を青に染めていった。不気味だ。しかしきれいだ。

 「あれは何だ?」俺は二人に迫った。「ひとだまだ!」最初に起こされた男が言った。

 「死んだ者たちの魂が燃えているんだ」もう一人の男が言った。

 「魂は燃えるのか?」「燃えているから、燃えるんだろ」「リンが燃えているんだ」後から起こされた男が言った。

 「リンって何だ?」俺は訊いた。「死んだ犬の目から青白い炎がめらめら噴き出ているのを見たことがある。同じ色だ。父さんがリンが燃えているんだって言ったんだ」

 「わかるように言え」俺はせっついた。「死んだ人の魂が燃えているんだ」「魂はリンか?」「そうだろうよ」男は自信のない声音で言った。

 青白い炎は太く膨らんだり、細く高く伸びたり、ふわりふわり横へ動いたり、俺たちの近くに飛んで来たり、遠くを漂ったりしていた。まるで俺たちに言いたいことでもあるかのように空中を泳いでいたが、やがて俺たちから離れて消えてしまった。

 その晩は眠れなかった。次の朝は六時に出発した。体が重かった。俺たち三人は青白い炎のことはだれにも話さなかった。俺たちの他に見た者がいたのかもしれないが、だれも何も言わなかった。上官の耳に入ったら、たるんでいる者は精神がおかしくなるのだと、相手にされないのがオチだからだ。俺たちはさらに歩いた。いったい、どこまで歩かされるのか。知っている者はいなかった。

(つづく)

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