連載小説『阿Q外伝』第八回
8.一本の筆
詩人男は長々と喋り出した。
「ある青年が魯迅に手紙を書いた。内容は〖魯迅先生は最近の愚劣な言行を見てみぬふりをして大衆を惑わしている。先生はこんにちの政策を理解しておられない。事を見ずして人を見るところに、先生の誤りの原因があります。〗そういう手紙だよ。魯迅はその青年への返事として、ある作品を書いた。長いから全部は覚えていないが、要点は〖私(魯迅)がこの統一戦線に参加すると言っても、私が使うのは一本の筆です。私はすべての文学者が抗日のスローガンの下に統一せよという主張に賛成する。表面だけ革命面をして、こそこそ他人を裏切り者とか反革命者呼ばわりする君は、まともではない。〗革命を利用して私利私欲を企んでいる手紙の青年を、魯迅はそのように批判したのだ。
こんなことも書いているよ。〖いろいろな派に属する文芸家を一つの気持ちに結び付けてはいけない。私は抗日問題で文芸家が文学の問題で互いに批判し合うのが良いと思っている。国防作品を書かない作家でも、よく読めば広義の愛国主義の文学であるという郭沫若の意見に私は深く同意する〗と魯迅は表明していた。文学においては、抗日戦線に関してみんなが新しい意見を出して討論することを許すべきで、これは金儲けの商売とは違うのだ。そういうようなことを強い言葉で書いた作品だよ」
詩人男は最初は考え考えゆっくり話していたが、記憶の回路が段々ぐるぐる早回りしていったらしく、何だか親父魯迅が乗り移ったみたいに話してくれた。詩人男が、魯迅はことを見ずして人を見ると青年に言われたと言ったとき、俺は『小さな出来事』をまた思い出してしまったものだ。だけど詩人男が語ってくれた魯迅の主張のほとんどがむずかしくて、正直に言うと、のっけからついていけなくて、途中から耳に川の音だけが聞こえていて、俺は眠くなってしまったんだ。
「魯迅は敵が多かった。しかし彼はぶれなかった。みごとな作家だ。みごとな人間だ、君の……」と言う詩人男の声が、眠い俺の耳の遠くで朦朧とするばかりだった。俺が我に返ったのは、詩人男が俺の頭を小突いたからだ。君が話してくれと言うから話したんだ。眠るな、と叱られている気がして。
「よく覚えているもんだ。一本の筆で戦ったのが魯迅だってことか。その筆から俺は生まれたのさ」と、半分眠っていた俺は、懸命に話した詩人男を褒めてやった。それから訊いたんだ。
「今はイキガミサマの世なんだろう? イキガミサマは美人なんて邪魔だって言ってる。美人は革命の邪魔か?」
馬鹿にされ小突かれて生きてきた俺は、エライ人の演説のあやしい匂いをかぎ取ってしまう癖がついてしまっているんだ。俺は、美人は革命の邪魔だというイキガミサマの訓示が分からなくて、首を捻っているんだ。
詩人男は沈黙した。密告者かもしれないと俺を疑ったらしい。だから俺は言ってやった。「俺はその日暮らしの日雇い人で、最下層の貧乏人だ。俺をまともに扱う者なんていない。それでも俺が生きていられるのは、人生にはそういうこともあるんだって、親父魯迅の言葉が気に入っているからだよ。魯迅は俺を裏切り者にはしなかったが、晒し者に書いた。イキガミサマは国家そのものになっているんだろ? そういう人は美人を晒し者にするのかなぁ」
「人生にはそういうこともあるという言葉を、君はどう理解しているんだ?」男は俺の知りたいことはそっちのけに、逆に訊いてきたもんだから面食らった。
「初めは軽く考えていた。だれかを襲った事件も俺を襲った事件も、俺は傍観していたからな」俺は思っていることを言ってやった。
「諦観か?」
「テイカン? そんな言葉は知らない。傍観だ」
「そお、傍観か……。それを今は軽く考えてはいないんだね」
「そうさ。傍観者は自分が平安でいたいから、社会が危険でも戦う情熱なんかない。魯迅はそういう傍観者だった俺を処刑した。処刑されたくなかったら目覚めろ、自覚しろって言いたかったんだろうな」
「君は本当に阿Qになったつもりで生きているようだね」
「なに言ってるんだ。何度も言っただろ、俺は阿Qだって。あれから随分年を取ったから、老阿Qだけどな」
男はクククッと笑った。「君はおもしろいね。笑ったのは久しぶりだ」
「そうかい、おもしろがらせた礼をくれ」
男は視線を川の流れに向けた。しばらく流れを眺めていた。川を眺めながら独り言のように言った。「頂上にいる者は実務派の行動が気になるようで、特に有能で人格の優れた実務者ナンバーツーを警戒するようだね。文化大革命の真の目的は、高潔で人気のある人物を消したくて仕掛けた策略、破壊行為ではないかと私は思っている。無知な青少年や少女たちを暴れさせているのが証拠じゃないか」
「それが礼か? 俺は頭が良くないから遠回しに言われてもなぁ。イキガミサマがいけにえにしたいのはだれなんだ」礼ならちゃんと言え。さっきの質問を俺はもう一度ぶつけてみた。
「劉少奇……」一旦息を止めるように声を切り、聞いたことのない男の名前を川に流すようにこっそりと言ってゆっくり立ち上がり、後ろを振り向こうともしないで去ってしまった。
俺は底が抜けたポケットに両手を突っ込んで農道を歩きながら、その名前を呟いていたら、俺と同じ生産団体にその名前をひっそり口にしていた男がいるのをふっと思い出したんだ。外見はみんな同じでぼろを着ているから無学な俺と違わなく見えたけど、劉少奇の名前を出してなにやらこそこそ喋っていた男は、根っからの百姓ではなさそうだ。きっと学問した男だろう。そういう人があっちこっちに追いやられて、道路清掃とかレンガ作りとかやらされているのだと、俺はこのとき気づいたのだ。
劉少奇という人がこれからどうなるのか、俺も関心を持たなくてはな。なぜかだって? 俺は野次馬だけど、時代が変わたんだから野次馬だって少しは成長するんだ。傍観者のときはまったく必要がなかった生き甲斐みたいなことが見つかって、俺の血は騒いだ。
(つづく)
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