2024-02-07

連載小説『阿Q外伝』第一回

~はじめに~

中国政府給費留学生として来日、仙台の医学専門学校(現 東北大学)で医学を学ぶものの二年で退学し東京へ。夏目漱石の文学に影響を受けた魯迅(1881~1936)は、帰国後、代表作『阿Q正伝』を発表。はっきりした名前を持たない日雇い労働者阿Qは、ある地方の革命騒ぎの犠牲となり、処刑される。無学で滑稽な阿Qを魯迅はなぜ処刑し、処刑することで何を訴えているのか。

 魯迅亡き後の現代中国を『阿Q外伝』として描いてみようと思ったのは、現在の悲惨な世界情勢と重なる景色が、想像すれば数多くあるからで、私は阿Qを蘇生させることにした。岩茶房に所属する者としては、どこかで茶を絡めてみたい思いはある。どこで、どのように茶を登場させようか。そんなことを考えながら物語を進めてみることにする。

1.阿Q現る

 俺らしくもなく、今日は一日中、人民の自由と平等のために革命すると宣言した二人の総領のことを考えていた。考えられるようになるまでに、何十年もかかったけどな。

 二人の総領とは、毛沢東と蒋介石だ。二人は水と油だったようだ。毛には自国民同士が戦争をしてはいけないという思いがあったようだが、蒋は外国の資本と結託したんだ。金持ちの帝国主義者と手を結んで共産党を追い払うのが目的だったと俺は聞いている。二人は別々の野心を胸に秘めていたんだから、うまくいくわけがない。

 外国資本は、アメリカと日本だ。

 俺たち同国人の中に帝国主義者がいたなんて、初めて知った。

 帝国主義者って、どういう連中なんだ? いろんな人に聞いて回ったら、地方出身の資本家だって教えられた。資本家と呼ばれるそういう連中が使っている言葉は、俺にはどこの国の言葉なのか、さっぱりわからなかった。学問した者たちは、その連中をブルジョアジーとか呼んでいたな。 

 共産党がまだ軍閥と呼ばれていたとき、つまり政権を争い合う内戦に明け暮れた時代だが、軍閥国家に怯えていた孫文という人が辛亥革命を起こしたんだ。この革命に希望を抱いた文化人や学生は大勢いたぞ。

 1921年1月1日、中華民国が樹立して、孫文は臨時大統領に就任した。ところが3ヵ月も経たないとき、袁世凱という軍閥の実力者が孫文を倒して臨時大統領に就いてしまったのだ。孫文は日本へ亡命してしまったもんだから、軍事政権になったのかな。

 1925年に死んでしまった孫文の遺志を継いだのが蒋介石だった、というから驚いた。孫文は理想主義者だったから、現実主義者の蒋介石の腹の中が見えなかったのかなぁ。それとも蒋介石に自由を感じたのかなぁ。1928年、蒋介石は南京に国民政府をつくり、主席に就いて全国を統一したのだ。孫文の後継者はこの私、蒋介石だ!と叫んだんだろう。

 蒋は共産党員の逮捕を始めた。孫文が死んでしまうと、今が好機だと気が大きくなってしまったのかな。南京、杭州、広州で蒋は激しい赤狩りをやったんだ。上海の共産党員は一斉に逮捕されたということだから、国民政府と共産党との決裂は決定的になった。赤狩りで犠牲になった者は、1927年から29年の二年間で45万人以上だと聞いている。

 このとき、革命できるのは共産党だけだと声高らかに訴えたのが毛沢東だったんだ。毛を信じたのは農民だった。なぜ農民かというと、中国は広大な農業国だからだ。長江以南のほとんどの農民の生活は、そりゃあひどいものだった。地主出身の資本家連中に吸い上げられていたからだ。

 貧農を立ち上がらせ、革命したのが中国の特徴なんだ。南方から黄河以北に向けて北上していった毛沢東の革命軍、農民軍は蒋介石軍に敗北し続けたが、皮肉にも敗北が農民を鍛えてしまったようだ。鍛えられた農民のエネルギーを集結させたのが毛沢東なんだ。毛は農民に向かって声高らかに呼びかけた。「秋の収穫期に蜂起する」と。

 先頭に立って毛は繰り返し強調した。「全党員に告ぐ。中国革命は民主主義革命である」

 民主主義ってどんな主義なんだ? 俺も農民も無学なもんで、わからなかった。

 毛沢東は農民に「民主主義とは諸君と一緒に蒋介石と戦うことだ。きみたち農民を苦しめた地主と戦うことだ」と教えてくれたんだ。悦び興奮した農民は、一斉に武装した。これが軍隊の中身で、紅軍と呼ばれたんだ。

 毛はこうも言ったね。「農民から針一本奪ってはならない」って。

 農民のためにこうまで言ってくれる人はいなかったから、ひもじさに耐えていた農民は喝采し、心酔したんだ。

 こんなうれしいことも、毛は言ったよ。

 「言葉は穏やかに。借りたものは返す。壊したものは弁償する。人を殴ったり、ののしったりしない。婦人にみだらなことをしない」

 俺は民主主義なんてわからなかったが、毛の言う民主主義はわかったね。婦人にみだらなことをしないってところだけ、ちぃっと自信はないが、民主主義ってそういうことかぁって、農民は歓声を上げ、奮起したんだ。

 蒋介石の腹の中なんてわかりようもないが、俺の生みの親、魯迅も同じ浙江省の出身だ。

 魯迅はいかがわしい薬で死を待つばかりにされた病人を、新しい医術で治療したいという希望があって日本に留学したんだけれど、日本に渡った一年後に辮髪を切ってしまったということだ。辮髪を切るということは、これからどう生きるかを決断した重大事なんだ。

 仙台医専(現 東北大学医学部)での勉強を早々に切り上げ、魯迅は東京へ生活を移してしまった。医者になることをやめたのだ。理由ははっきりしないが、日本の医術の勉強は暗記することだったらしく、支那人は科挙試験に合格するため丸暗記は得意だったから、日本の学生みたいに真剣に筆記して暗記しなくても、頭がどんどん知識を吸収してくれたんだろうな。

 魯迅が仙台から東京へ戻ったころ、夏目漱石という人がイギリスから帰ってきたのだそうだ。はじめ千駄木という学園町に住んで、なんでも猫の小説を書いていたらしいが、家賃は高いし、幻聴にも悩まされて、神経が衰弱したということだ。それで千駄木の生活環境に嫌気がさして引っ越してしまったという話だが、本郷の西片町だったか早稲田南町だったか、漱石が住んでいた下宿を魯迅が借りて住んだというのだ。家賃は40円とかで高かった。清朝政府からの留学奨学金は月額40円くらいだったそうだから、仲間5人で借りて住んだということだ。40円は日本のその当時の会社員の給料よりも多かったらしいな。浮いた家賃で魯迅は腕時計を買ったりした。明るい都会の生活が好きだったのだ。が、それよりもなにより好きで尊敬していたのが、夏目漱石という小説家だった。作品に『虞美人草』というのがあるそうだ。虞美人草って、真っ赤な花をつける葉っぱのない気の強そうな花らしい。主人公は西洋風の理性的な女性で、魯迅は『虞美人草』に相当な影響を受けたようだ。

 俺が後々知った学のありそうな人たちは「魯迅の文章はむずかしくて、よくわからない」と言っていたなぁ。西洋の匂いがプンプンする小説の影響を受けていたんだから、支那語では理解しにくい言葉が、魯迅の文章にはふんだんにあったんだろうな。

 辮髪を切り、夏目漱石に影響された俺の親父魯迅は、日本滞在中にこれからの自分の人生を決めたということだけは、俺にもわかった。

 帰国して新しい支那建設に向けて生涯全力で働こうと決心し、愛国者になった魯迅は、経済的余裕がなくなった。その上、政治闘争にも力をつぎ込んでいたから、命も狙われるようになってしまった。金のために、革命のために命を削って文章を書いていたのが、俺を生んだ魯迅なんだ。(つづく)

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